能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

(雑録)「言語交換」

 基本的には前回の記事のつづきになる。

 

notoya.hatenablog.com

 

 

 前回は、「ネイティブ」である私に寄せられる「ノンネイディブ」の信頼とそれに対する困惑と不誠実、という赤裸々な話をした(つもり)。これを書き終えてしばらくうろうろしていると、補足しておくべき情報が有るような気がしたので今回はその話をする。いまなお受け継がれる「御恩と奉公」、あるいは錬金術で言うところの「等価交換」、その難しさを「言語交換」というテーマで述べる。

 みなさんは外国人留学生と言語交換をしたという経験がおありだろうか。日本人は、留学生と積極的に交流するタイプと、どちらかといえば消極的なタイプに分かれるように思う(個人の経験です)。私はどちらかと言えば後者であったが、修士時代は「チューター」という形で留学生支援にあたったことがある。とはいえ、本格的に自分自身が(!)留学生の立場を得、ひとまず生活に足る言葉を身に着けなければならないという切迫感に襲われるとき、当然その選択肢は「言語交換」ということになる。

 とはいえ、実はこの「言語交換」そんなに簡単ではない。ここから総て(というよりこれまでも)個人の経験なので、違う例があればぜひご教示いただきたいが、「言語交換」を成立させるには、①:互いの言語レベルが均衡であることが望ましい。②:無関係な他者との間での交換も難しい。負担が少ない相手を選べるほうが良い、という最低でもふたつの条件がある(これは言語交換に限らないように思う)。

 

 さいわい、私を受け入れてくれた学校の先生は私の先生との間でこれまで良好な関係を構築してきたらしく、そうじて私に親切であり、さまざまな世話を焼いてくれたし、なにより留学前からの知人である先輩方は私に親身に接してくれた。その世話の一環には、私に「生活力を身に着けさせる」というものが含まれており、今考えればチュートリアル的にいろいろな過程を体験させ、「言語交換」の相手も紹介してくれた。

 このときの彼は、①ではなかった。とんでもなく日本語がうまい学生で、しかも留学経験はなかった。とんでもない「日本オタク」であり、狭義のオタクでもあった。今思えば彼には相当な負担をかけたように思う。

 その他の諸先輩も、総じて①ではなかった。彼らにはいずれも留学経験があった。一方で②は満たしていたので、根気強く付き合ってくれた。もちろん学校にも通ったが、言語レベルの向上にはひとえにこの強力なサポートがあったからである。そうしたとき、ひとつの転機になったのが、また別の先輩である。おおむね学び始めて1年を過ぎ、「まあまあどうにかなったんとちゃう?」レベルに到達した頃合いだった。

 その先輩は、①と②を満たしていた。彼は日本の大学へ交換留学を希望し、準備を進めていた。私から見れば彼は私よりは外国語としての日本語能力はあったが、いかんせん「実践不足」という課題があった。そこで私が「活躍し」、以後もほかの後輩たちの「世話を焼く」きっかけになったように思う。が、私もまたこの先輩から多くを得たように思う。

 生活程度の外国語がどうにかなっても、新聞や学術的な議論を展開するに足る能力はまだまだ身につかない。そうした意味で、①がとても重要で、相手を探すのが容易ではない。一方的に教わる関係になれば、「教える」立場としてどうしても負担が大きくなってしまう。相互に得るものがあるからこそ、その学びにゆとりが出来る。しかし、自分ひとりではこうした相手を得ることは難しく、いきおい語学学校の門を叩かねばならない。しかし、叩いてもうまくいくわけでもない。試行錯誤が続いていく。そうした時に、②の重要性が発揮される。

 

 人間どうしても一度休むと、その再開が難しい。お互いに気兼ねがあればなおのことで、なるべく遠慮しないほうが良い。海外という場で遠慮していては最悪死ぬ。助けをこうことがなにより重要であると気がつき、そして油断をした頃に死ぬ。助けてもらえる相手は多いほうが良い。その選択の幅を、「御恩と奉公」の関係によって広げていく。いくぶん利己的でありながらも、これはべつに言語に限らないように思う。

 なにかしらの自分の力が、相手にとってなにか必要な力になることができる。そうした関係を築くというのが理想、ということになるのだろう。