能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

(雑録)「ネイティブ」

 本日はなんとなく違和感を言語化するこころみ。

  私は留学をしていて、その留学先ではさいわいなことに日本語を学ぼうという方がとても多い。もちろん、英語は不動の、永遠の一位では有るが、二位に日本語がつき、三位におそらく韓国語が来る。地理的な関係(国際関係)と習得希望言語は不可分な関係にあると思う。物理的に近ければ、いやおうなく政治、経済、文化的な交流が生まれ、言語の必要性は高まる。たとえDeepLやグーグル翻訳が発達しようとも、いましばらくは語学学習の積極的な動機はおそらく消えまい。

 留学先の交換留学の対象国、対象校は日本の学校が多く含まれ、また在籍先も日本の団体などとの交流が盛んな部門であった。そうした国にあって、私はいきなり「ネイディブ」となる。もちろん、日本語を学びたい、日本へ留学したいという学生と交流しなければ、その「ネイディブ」という看板(印籠)をかざすことも無いのだが、学校も日本との交流行事やシンポジウムがあれば、「こいつ呼んどけばいいか」という感じでお気軽に仕事を振ってくる。そうした状況のもと、そしてコロナ禍下(かか)という環境の中で、私は「貴重な」外国人になる。

 そこで私は貴重な「ネイディブ」になってしまう。この「ネイティブ」は、もちろん時として、留学志望者や日本語を利用する人に、日本語を「教える」という立場に立つことがある。

 しかしふとそうした「教える」立場の「ネイディブ」になったとき、私という人間は残念ながらとてもいい加減なのだった。文法書を読み、辞書をひき、正しい日本語を教えるというよりは、自分の母語話者としての感覚を、その場のしのぎの「理屈」に変換し、それをもったいぶって相手に伝えることになる。教えられる彼らは「「ネイティブ」がそう言うのだから」とその言葉を信じ込む。

 おそらく相手にとって、文法的に正しいかいなかはあまり重要ではない。学び手も日本語研究者になるわけでなし、言語感覚を掴む上でのひとつのステップだと思う。しかし、特にいい加減な答えを乱発しているのに「専門家」扱いされる自分に対するかすかないらだちが芽生えてくる。それでも時には「ネイディブ」を活かして小遣いを得る。

 ことばを扱うということは、おそらくとても尊い。しかし、「ネイティブ」として、無謬性を付与されるのはどうもそうした行為とは異なる気がする。といって、私が日本語の「専門家」になる気もない。私の経験に照らせば(個人の経験です)、身の回りにいるネイティブもほとんどがただたまたまその国に生まれ、言葉を喋る「ネイディブ」であるだけなのだ。

 ネイティブに過剰な期待はしないで欲しい。

 あなたにとって利用できる部分は利用すればいい、ただ彼らにうまく使われてはならない。とりわけ初学者が言語を学ぶ時は、母語話者の学び手に話を聞くといい。足元にあるつまづく石のありかを教えてくれるかもしれない。

 

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