(雑録)「食の概念化」
先日台北ですき焼きを食べた。二度ほどその機会があって、私の中での「すき焼き」概念が微妙に狂うものだった。
そのすき焼きには、牛肉、豚肉、鶏肉、エビ、キャベツ、ニンジン、トウモロコシ、サトイモ、餃子が入っていた。
スープのベースは醤油だったので、すき焼きと言うよりも実感としては寄せ鍋だったのである。すき焼きと言われればそうではないが、鍋としてはまず美味しいものだった。
えてして、いわゆる「本場」といわれる地域から離れれば離れるほど、その名前と食べ物の実態が「本場」と食い違うことはよくあるだろう。その食べ物の名が広く人口に膾炙すればなおのことである。そこでおそらく、独自の進化を遂げる。動植物と同じかもしれない。
よく見られることではあるが、現地の人間がその遠方から来た客人を喜ばす、もてなすためにその「現地の」料理を食べられる店やレシピを探し、客人に振る舞う。客人は明らかに好意で行われたその好意に謝意を示しつつ内心ではいささか驚きや困惑を持っている。
これには少なくとも2つの側面があって、1つは基本的に知識が欠けているということ。ままあることだし、しょうがない。もう1つは、もたらされた料理が「当地の」人間になじまない、あるいは入手しにくい食材が使われている場合は、調整されローカライズが施される。おそらくヨーロッパ人には日本と韓国と中国と台湾の違いはわからないし、アジア人も正直フランスやドイツ、イタリアの料理もなんとなくでしか認識していない。しかしお互いに「その国の」料理を楽しんでいる。日本の中華料理、インドカレーやカリフォルニアロールはこの範疇にあるだろう。
そのときに更に進んで発生するのは、そうした料理から、なにか「根幹」的な概念を析出して改良する、あるいはオリジナルの物を作り出す。こうしたたぐいのものとしては、日本の「洋食」や天津飯、諸外国の「いわゆる和食」などが該当するだろう。
進化や展開の激しい時代において、異国的な、エキゾチックな料理は場合によってはとても歓迎される。とはいえ、知識も、食材も乏しいとき、こうした要求に応える際には、なんらかの要素から新しい何かを生み出す。そしてそれを当地の好みに調整する。それはもはや、もともとのものがなにかとはあまり関係のないものではあるが、どこかに異国のものであるという記憶が残っている。
現代ではしばしばこうした誤解が論争を呼ぶ。ましてポリティカル・コレクトネスや文化の盗用といった概念がしばしば問題や論争をはらむ時、こうした正しさやオリジナリティといった「線引」はこうした「概念」との衝突を呼ぶ。
イギリスでの日本食のイメージは他のアジアと混同されているか、あるいは「概念化」された「kawaii」である。悪意があるとは思えないがいささか残酷な気もする。おそらく、無頓着なのだろう。
あるいは中東のメジャーな家庭料理、郷土料理のフムスはその起源をめぐってとくにイスラエルとアラブ地域で「しこり」がみられる。もはやスタンダードとなったナンバーは誰がオリジナルで誰がカバーかは厳密に峻別されない。
食べ物というのは、自分にとって血となり肉となるものであり、文化の根幹である。だからこそ、その地層は多用かつ豊かなものである。とはいえ、そこに線引をする、正しさを見出すことの難しさもまた存在する。
身の回りに有る「怪しい」料理も、起源をたどると思わぬところにたどり着くのかもしれない。