能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

(雑録)「食卓を豊かに綴るのは」

 なんだか今日はとりとめのないエッセイです。

 

 

 子どもの時分から食い意地が張っていたらしく、いろいろと食べ物にまつわる記憶というのが多いように思う。そうした由縁からか、「食事」に何がしかのこだわりを感じる作者、書き手に親近感を覚えることが多い。

 ごく子供の時分では、富安陽子の作品が好きで、中でも『やまんば山のモッコたち』がお気に入りだった。ヤマナシのジャムと、クルミのはちみつに、かやくごはん、クリームスープ、ヤマモモのさとうづけ、木いちごのジャムなどが、どうも作品に出たらしい。こうした山の樹の実や菜の名前を見て、はてどういう味がするのだろうと想像するのが面白かったように思う。

 

やまんば山のモッコたち (福音館創作童話シリーズ)

やまんば山のモッコたち (福音館創作童話シリーズ)

 

 

 少し長じて、父親の書架から司馬遼太郎なり藤沢周平なり池波正太郎なりのいわゆる時代小説を引っ張り出して読んでいたが、楽しかったのは池波正太郎であり、それは氏の作品は際立って食事の描写が豊かだからだ。手許にないので引用することは出来ないが、氏の作品には、『剣客商売』といい『鬼平犯科帳』といい、江戸時代中期頃の江戸の食事風景について、想像を掻き立てられる。

 

そうざい料理帖 巻一 (平凡社ライブラリー)

そうざい料理帖 巻一 (平凡社ライブラリー)

  • 作者:池波正太郎
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2011/01/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 落語家はそばとうどんの食べ分けを演じられれば一人前だと言うけれど、食事の描写をさりげなくかつ食欲を誘うように書き記すことが出来ると、作家として達人の域に入るように思う。もっともこれは、ただの食い意地による贔屓の引き倒しかもしれない。

 さて、歴史の中で、基本的には時代が下るごとに、食卓の彩りは鮮やかになっていく。大航海時代によって南米からもたらされたじゃがいもやとうもろこしが、ヨーロッパの歴史を変えていったことはよく知られているけれど、時代が進むにつれて、貿易や通信が進み、様々な地域の風習や食文化が往還することになる。

 日本でも、明治維新以前の食事といえば、それはほぼ米のみで、栄養バランスもなにも食べることに精一杯な時代が長らく続いたという。維新以後、肉食の文化の広がり、都市部での「洋食」文化の創造など、その変化は加速していく。そんな歴史の中で、勢い時代が引き戻される時期がある。

この世界の片隅に : 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に : 上 (アクションコミックス)

 

 

戦下のレシピ――太平洋戦争下の食を知る (岩波現代文庫)

戦下のレシピ――太平洋戦争下の食を知る (岩波現代文庫)

 

 

 近代化の中で、彩りを増した食卓を、一気に五十年百年と引き戻したのが戦争だった。『この世界の片隅に』では、「楠公飯」がクローズアップされていたが、都市部では輪をかけて食べるものがなくなっていった。それは敗戦後もしばらくの間続く。 

 そうした時期に、思いの外売れた一冊の本があった。

「『御馳走帖』は、敗戦の翌年の、御馳走どころか満足に食べるもののない時期、また読むものが満足にない時期に、一萬部刷って、全部売り切れてしまった」(平山三郎『実歴阿房列車先生』中公文庫、2018年、p.90)

  内田百閒はいまなお『阿房列車』などユーモアに溢れたエッセイが人気の作家で、1945年時点で56歳、壮年期を文筆業で生計を立てていた。彼は東京四谷六番町に居住し、1945年5月26日の空襲で住居が消失することになり、以後は掘っ立て小屋で終戦後しばらく夜露を凌ぐようになる。

 そうした生活の中で、過去に食べた・飲んだ様々な食事・酒の記憶を綴ったのがこの『御馳走帖』で、魚、肉、野菜、洋食和食とを問わず、さまざまな食事について、ときに「目録」だけという記事も交えて記している。

 

御馳走帖 (中公文庫)

御馳走帖 (中公文庫)

 

 

 食料がろくにない時代に、もしお金があっても満足に食料が手に入れられない時代に、ページをめくって目の前に現れる御馳走は、当時の人にとってそれでもかけがえのないものだったのだろう。前述の『この世界の片隅に』でも、似たようなシーンが見られる。

 いまもなお、数多くのエッセイ、漫画、ドラマなどで、食事を描く作品は多い。しかしその渇望は、あの時代と比べればいささか凄みが違うようにも思う。今の時代に、かつてほどの凄みがないことを寿ぐとともに、今の時代に求められるのは、珍奇新味で豪奢なものよりも、ふとした懐かしさを誘われる味わいなのではないかとも思う。行きし世の面影を追うのは、あの時代も今日もまた変わらない。

 しこしことエロ本を書き記し、それがシコシコと売りさばかれるのもまた、渇望によるものなのだろうか。