能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

家庭と福音

 クリスマスおめでとうございます。神の子イエスが地上に遣わされた日ということになっておるのがクリスマスです。決してアレやソレでナニに励む日ではないんですよ心得よ太陽の子孫たち。さて今日はそうしたクリスマスをマクラにして、家庭に関する話をしてみたいと思います。以下はだ・である文です。

 


 父親がながらくキリスト教関係の仕事に就いている関係で*1、私は幼い頃からクリスマス頃になると職場が主催するクリスマスミサに参加していた。子どもにとって神父がする説教はほとんど退屈な時間であって、メインはもちろん会後の食事会、ないしモノホン?のサンタがくれるプレゼントであった。とはいえ、今なお聖歌がいくつか歌えること、キリスト教世界観への興味や理解は維持していることから、三つ子の魂百までという成句を思い出す。
 父のすすめもあって進学した学校はカトリック系であったために、週1回宗教の授業があったし、その中では聖書に関連する内容も多くあった。もっとも、キリスト教への帰依を強要するものではなかったと私は理解しているし、宗教の授業の中で私が興味を惹かれたのは教派神道であった。


 こうした私の履歴から思いおこすのは、家族は密室であるという先ごろ笹松しいたけの問題提起である。子どもが自発的に自らの「信仰」を決めることは出来るのかという話である。2010年代以降、こうした宗教と「子ども」をめぐる著作が数多く出版されてきた*2

 何らかの理由により、親が突然宗教に「ハマる」場合ももちろん大きな「問題」をはらむ可能性があるが、ここで問題にしたいのは、「生まれたときから宗教と密接に関わって暮らすことが普通であるとされる人々(子ども)」である。子どもにとって、親(家族・親戚)はほとんど世界の全てである。彼らがもし、宗教の会員・信徒として深く活動する場合、コミュニティも完全に宗教に含まれていく。ここでは特に「カルト」と呼ばれる比較的過激な信仰主張をする人々が問題になるわけだが、そうした場合に、子どもの「世界」はいかなる形をとるのだろうか。


 私は決して、宗教や信仰を否定するわけではない。しかし、ほとんどの宗教において子どもが親の宗教・信仰を引き継ぐことが「当たり前」であり、もしそれが出来なければ親と子どもが何らかの不利益や危害を加えられる可能性も否定はできないのである。ただでさえ密室である家族・家庭が、宗教という大きな密室と渾然一体になっていたばあいに、子どもはどこから「社会」を視ることが出来るのだろうか。


 いかなる信仰のかたち、内容を採用していようとも、宗教というのはほとんどが極めて「保守」的な側面を抱えている。その根源とは、宗教が抱えざるを得ない「無謬性」である。ほとんどの宗教は「間違う」ことが出来ない。もし間違いが生じているならば、それは「社会が間違っている」と主張しがちである。こうした場合に、うまく社会・世俗との関係を作り出すことが出来なければ、宗教それ自体が大きな密室と化してしまう。大きな密室にいる彼らにとって、「子ども」が密室から外へ出て「社会」を視ることは必ずしも歓迎されない。そこに含まれる家庭もまた、絶対であり、無謬なものへと回収されていく。


 しかし、近代とはそのような時代であったろうか?
 宗教改革以降、宗教と世俗社会の対立、分離はとくにヨーロッパを中心とする社会の近代化において非常に重要な位置を占めていたと考えられる。閉じた世界が広がり、違う世界へとつがなり、そのつながりが全世界へと拡大してきた。しかし、ほとんどの宗教がいまだに家族という密室を地盤とする閉じた世界の中にある。そこに「信仰」はあるのだろうか。社会インフラと化した宗教は、出発点であるだろう祈りや救いを実現できるのだろうか。
 「無謬」を社会の中で理解し、家族を解放することが、新たな宗教の出発点になりうるのかもしれない。 

 

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ケルン大聖堂にて

 

*1:ただし我が家は別にクリスチャンというわけではない。いまのところ浄土真宗である

*2:佐藤典雅『ドアの向こうのカルト:9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録』河出書房新社、2013年
高田かや『カルト村で生まれました。』文藝春秋、2016年
いしいさや『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』講談社、2017年など