能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

本棚に権威を?

sasamatsu.hatenablog.jp

 

 なんとなくひっかかりがずっとあったので、「本棚と権威」の話をしましょう。この話もいろいろと「権威」的な話にすることなど容易いのですが(こういう言い方も権威的ですが)、文献もひかず直感的に物を喋ってみることにしましょう。理論などはあとづけでもどうにかなるものです。

 

 まず本自体の権威性について考えてみましょう。

 基本的に、大きい本、重い本のほうが偉い。そういう大艦巨砲主義的なところを、私は持っています。大きいことはいいことだ。何とはいいませんが。私は大きい方が好きです。ひょっとするとそういう考えの人は多いか知らん。なぜなら、大きい本は大きい、重い本は重い、つまりは、紙の数が多い(大きい)のであり、使っているインクの量も多く、校正の仕事量も多いために人的コストも上がり、おそらく書いている人の労働量も多いので、トータルコストが高い。つまりは、バカみたいな値段がつく。高いのは偉い。拝金主義です。

 百科事典などはこの代表格で、おそらく隅々まできっちり読むというのはよほどの気狂いでなければいないでしょうが、本棚の片隅(物理的に一番下に行く)にでも置いておけば随分と本棚の安定感が増す。この物理的かつ精神的な安定感を、ある程度の人びとは欲していると思うのです(平凡社世界大百科事典』の成功が現在まで続く百科事典商売の原型を作ったとかいいます)。似たような例は辞書系。広辞苑やら大辞林などはすっかり電子辞書に「権威」を付与する存在ですが、本棚では物理的に権威をくれるでしょう。

 「重い本ほど偉い理論」という非常にバカな話をすると、学術書はたいてい重いと思います。学術書の切り売りが叢書や新書なんですが(単行本に対する文庫みたいな感じでもある)、単行本の学術書は著者の「たましい」でもあるわけなので、なんとも重い。ただ、こいつらの持ってる権威は百科事典ほどわかりやすくはありません。分野外の人からすれば、その本が権威を持っているかどうかがわからない場合もある(多いかもしれません)。「なんとかかんとかの研究」の「なんとかかんとか」が分からない。聞いたことが無い。知ったかぶりも(スマホなしには)出来ない。こうなると逆に、皆が知っていて権威を持っている書誌というのは、「岩波文庫」に入ってくる。アリストテレス、カント、湯川秀樹川端康成…このへんは権威が重すぎて逆に本が軽くなってしまったパタン。お手軽に権威を電車内でひけらかすことが出来ます。

 とすると、本棚を岩波で埋めれば本棚には「権威がある」のか?

 毎日書架を眺めているとなんとなくそれは違う。岩波にはたしかに権威はあるけれども、それは教養主義的な権威なのであって(あるいは封建的かもしれない)、おそらく「本物の」権威ではない。通底された(使い古された)教養はもはや古典を通過してネタに行ってしまうのであって、権威権威権威と威張っているとどこか滑稽に見えるでしょう。

 やっぱり重い本が権威なのか?

 おそらくこちらもノー。こいつらの権威はたいてい最後まで読まれていません(百科事典とかね)。だからこう、権威性を演出する小細工として付箋を貼っておいたり一番最後の頁に〇〇日読了などと書いてやるといい。ただこういうのは表からは見えない。

 本自体の権威性とは、別のところに問題があるのではないか。というのがとりあえずの結論(仮説)です。もちろん、本自体には権威があるのですが、本だけで本棚に権威が成立するわけではなかろうと。 

 

 何かに支配されたように見える(非常に統一的であったりスッキリしている)書架にはあまり権威がなく、読む人間がどういうふうに本を読んでいるのかという「分類」に最も権威性があるということです。書架のつくり手が、自分の持つ本をどのように読んで整理をしているかが重要だと思うのです。

 ようは、本棚には「本が並んでいる」わけではなく、「本を並べている」わけで、その並べ方にこそ「つくり手」が何を権威としているか、よるべとしているかが表れ、意図がよく現れる。

 あなたは、エロ本をどのように集めていますか?並べていますか?

 ひょっとすると、そこに一番の「権威」があるのかもしれません。