能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

(銀行家系図)「神戸銀行の家系図を書く」

 私の変わった趣味についてです。

 

 私には変わった趣味がいくつかあって、そのひとつに「銀行の家系図」を書くことがあります。日本に銀行制度が出来てから百有余年がたちますが、その間に千以上の銀行が設立されました。いまや全国地方銀行協会会員行65行、第二地方銀行協会会員行41行、都市銀行5行、ほかゆうちょ銀行や信託銀行、ネット銀行を併せても200行にもなりません。銀行は時時の政府による政策変更の煽りをまともに受け、時々に統合を進めてきました。90年代から00年代にかけて、多くの都市銀行が統合され、現在も地方銀行の統合が進んでいます。そうしたなかで、「一体この銀行はどこからきたのか?」がよく分からなくなった銀行も多いと思います。

 富士銀行、第一勧銀、さくら銀行…いまや懐かしい名前ですが、どこが何銀行かわかりますか?UFJ銀行ってなんだっけ??

 合併したのはちょっと昔ですが、いまやどこがどこだかよく分かりませんね。とはいえ、銀行の数が急激に減少したのは平成の時代ではなく、おそらく戦争の時代でした。交通面においても、陸上交通統制法などの法律によって、私設鉄道やバスの統合が進められたように、銀行も1936年に政府の政策的に各都道府県の地方銀行の統合を進める「一県一行主義」が提唱され、各県では銀行の統合が相次ぎました。

 1930年代には500を越える銀行が、1941年には61行まで減少したといいます。こうした統合の中で、県下の各地域が持っていた経済的な独自性は県域的な広がりの中へ再編され、「県としての統合」に加担したといえるでしょう。多くの県下の第二都市は、都道府県庁所在地に自分たちの「銀行」を取り上げられる苦衷を味わいました*1

 こうした銀行の歴史を「家系図」として捉えていこうというのが私の趣味である「銀行の家系図」です。ちょっと例をお見せしましょう。

 

 

 1936年に神戸岡崎銀行、姫路・五十六(明石)・西宮・三十八(姫路)・灘商業(神戸)・高砂の7行が合併して「神戸銀行」が設立した時の図です(クリックで拡大します)

 県下主要七行の合併によって設立した神戸銀行は、初代取締役会長:岡崎忠雄(神戸岡崎)、初代取締役頭取:八馬兼介(西宮)、初代取締役副頭取:牛尾健治(姫路)が就任しましたが、その中心にあったのは岡崎財閥*2の神戸岡崎銀行だとされています(二代目頭取に岡崎忠が就任)。

 図1を見ますと、おおむね1936年までに地域的な統合(神戸・阪神東播中播西播)があったことを伺わせます。

 

  • 図2:丹波地域の統合

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 神戸銀行にとっての次の転機は、1942年です。図を見るとなんだかややこしいのですが、篠山市にあった百三十七銀行が1942年に神戸銀行に合併、やはり篠山の中丹銀行を神戸銀行に合併(部分的に京都の丹和銀行へ分与)し、丹波地方における地域銀行が県域銀行に統合されます。

 

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 地域銀行の整理段階はおおむね二段階ありましたが、西播東播地域ではそれが顕著でした。1940年には東播地域を中心とした銀行統合があり、播州銀行が発足します。1941年には西播地域の銀行が兵和銀行へ統合されます。そしてこれら地域銀行は、1945年に神戸銀行という県域にさらなる再編を遂げます。

 

  • 図4:但馬地域の統合

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 同様の傾向はやはり但馬地域にもあり、生野・村岡・養父など但馬地域の銀行が全但銀行に統合され(1941)、さらに神戸銀行へ統合されます(1945)。

 

  • 図5:摂津・東播地方の合併

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 昭和20年には他に、摂津・東播地域に残されていた比較的規模の小さな福本銀行、恵美酒銀行、神戸湊西銀行、神戸信託銀行を合併しています。

  • 図6:1941-45年の流れ

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 こうした地域的な統合→神戸銀行への合併という路線を基本としつつ、おおむね昭和20年までに、太陽銀行との合併以前の姿である神戸銀行が発足します。とはいえ、こうした地域統合→県域統合が既定路線だったわけではありません。

 由里宗之は「戦時期における兵庫県下3銀行の合併中止の経緯とその後の神戸銀行との合併交渉過程」において、播州・兵和・全但の三行が合併を志しつつ、日銀・神戸銀行兵庫県庁による掣肘を受けて撤回され、さらに神戸銀行による統合へ路線変更を余儀なくされていったことを指摘しています*3

 播磨・摂津・丹波・但馬・淡路という歴史的、文化的、気候的にも別れた兵庫県においては、銀行においてもまず地域的な統合が重視され、その地域的な統合によって地域に資さんとする意志が働いていたことを伺わせます。しかしながら、兵庫県日本銀行においては、地域よりも「県」としての統合を重視し、都市銀行の性格を持つ神戸銀行を同時に地方銀行としての性格を担わせることで、県と地域の両立を図ろうとしたのかもしれません。

 神戸銀行の発足は、兵庫県における地方銀行の歴史において重要な意義を持つとともに、経済的にも統一できない兵庫を政策的に統合せんとした県・日銀の意図が見えてくるようにも思えます。さらに、この神戸銀行をも巻き込んだ金融再編においては、相互銀行を前身とする「太陽銀行」との合併により、「太陽神戸銀行」として発足、後に三井銀行との合併により「太陽神戸三井銀行さくら銀行」へ。さらに住友銀行との合併で「三井住友銀行」へと生まれ変わります。

 こうした銀行の歴史を紐解く中で、地域的な歴史と、日本という国の金融政策の変化が見て取れるのではないかと思います。今後も都市銀行を中心として、こうした超大な家系図を書いていこうと思います…。