(近代建築探訪)「台湾総督府専売局松山煙草工場」(松山文創園区)その1:歴史編
昨日に引き続いて「台湾の近代工場」をご紹介していきます。
今日は歴史を主に紹介していきます。
①:台湾統治の枢要たる「専売」
日本の台湾統治にとって、「専売」は欠かせないものでした。アヘン、塩、樟脳、タバコ、酒を専売品とした台湾総督府は、これら専売品の売上や諸税で得られる莫大な収入を台湾統治に利用しました。その収入は総督府全体収益の約40-50%を締めており、安定した財源(しかも間接税!)となっていました*1。そのため、総督府による専売に関する事業は非常に「充実」したものとなっていました。
アヘンは1897年、食塩・樟脳は1899年、煙草1905年、酒は遅れて1922年にそれぞれ専売事業となり、それまでの民間施設は専売局に接収されることとなっている。1935年時点で総職員3000人を超える巨大組織となっており、専売に関わる人は「販売者」も含めればかなり広大なものとなり、また「利権」化していました。
②:専売局は1930年代に工場設備を増強
1930年代には、専売局はつぎつぎに工場を拡張、あるいは新設していきます。下の記事でも言及した現在の「華山文創園区」はもともと総督府専売局台北清酒工場でしたが、1933年には施設の増強や新設が行われています。
③:専売局松山煙草工場を新設
この台湾総督府専売局松山煙草工場はその流れの中で、1937年に起工し、1939年に竣工します。戦時下において、国産煙草の増産や戦地への供給は至上命令であり、本工場も遺憾なくその性能を発揮したようです*2。
④:戦後も煙草工場として活躍、80年代から再開発が議論される
1945年、台湾が中華民国の領土となっても、この松山工場は「台灣省專賣局松山菸草工廠」として、やはり専売局の工場として活用され続けます。
一方で、台北市のほぼ真ん中に所在するという立地から、1970年代から80年代にかけては、その移設と跡地の再活用がしばしば話題に登っています。
1990年代には、この工場跡地を「ドーム」(巨蛋)の建設地に当てることが議論されはじめます。1991年には、郭柏村行政院長が全天候型の野球場(ドーム)の建設を指示し、1993年には李登輝総統の建設計画に組み込まれます。
1998年、本工場でのタバコの生産が終了、本格的に跡地の利用に関する検討が始まりましたが、そのなかで保存を求める世論も高まっていきます。1999年には、旧跡としての保存と、ドーム建設を併存する世論が提起され内外の賛同を集めます。
⑤:2000年代に文創園区へ
2001年には市定古蹟に指定され、本格的な保存も検討されることになり、当時の馬英九台北市長や陳水扁総統も巻き込み大きな議論となりました。結果として、2003年に文化体育園区としての活用が決定*3、2005年には文化園区の運営主体として「誠品」が選ばれます*4。
2009年には、臺北文創開發股份有限公司が隣接する「臺灣鐵路管理局臺北機廠」(また近日紹介します)の跡地に商業ビルを建設し、松山菸廠と一体化した「文創基地」の建設を決定し、そのビルの設計を伊東豊雄が担当することが決まりました*5。2011年には、松山文化創意園区として正式に開業、現在に至っています。
次回は写真をご覧に入れていきます。