能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

(銀行家系図)「富士銀行の家系図を書く」(その2:解説編その1、1923年安田系12行合併)

  富士銀行の直接の源流は、安田銀行です。

 言うまでもなく、「銀行界の王」とも言われた安田善次郎が一代で作り上げた金融財閥です。いわよる四大財閥と呼ばれる、三菱・三井・住友が金融以外にも商社や製造業、運輸業で業務を拡大したのに対して、安田は金融業を主業としてその事業を拡大しました。

 一方で、製造業や運輸業浅野総一郎率いる浅野財閥が主に担当し、安田は浅野に積極的に投資を重ねました。安田は「吝嗇」あるいは「勤倹」で知られましたが、実際には匿名の寄付を重ねました。見込みない事業からの引き際は鮮やかで財界、社会に知られましたが、1921年、彼を恨みに思う青年に刺殺されました(享年82)*1。死後彼をしのび、東京大学の講堂は「安田講堂」と呼ばれるようになったそうです。

 この安田が財を重ねたのが安田銀行ですが、1923年に安田・保善を中心とする12行の合併で、新「安田銀行」が誕生し、現在に至る骨格が作られました。

 

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安田銀行行章

 

①:安田系銀行12社

 1923年に保善銀行に合併したのは、安田銀行第三銀行・二十二銀行(本店:岡山)・第百三十銀行(本店:大阪)・日本商業銀行(本店:神戸)・肥後銀行(本店:熊本)・明治商業銀行・根室銀行(本店:根室)・神奈川銀行(本店:横浜)・京都銀行(本店:京都)・信濃銀行(本店:長野、1928年創立行とは別)です。現在もある銀行名が見えますが、いずれも直接の関係はありません。

 中心となる安田・第三以外では地方銀行が目立つのも特徴的ですが、根室銀行以外は基本的に他社が創業・経営していたものを、日清戦争日露戦争第一次世界大戦後の不況を契機として経営を引き取ったものがほとんどです。

 第百三十銀行などは、関西財界の大物であった松本重太郎が創立した、在阪の有力行でしたが、日露戦後の不況により安田の傘下となっています*2

 本店神戸の日本商業銀行の創設者は、川西清兵衛ですが、彼は兵庫電気軌道(のちの山陽電気鉄道)や日本毛織を設立、のちに川西航空機(現:新明和工業)を設立するなど、兵庫県財界の大物でした。同行は当初から安田善次郎の出資を受け銀行を設立しています。

 このあたりの経緯は、『安田銀行六十年誌』(1940年)に簡単にまとめられています*3

 

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②:参加銀行の大半は旧国立銀行の名門

 1923年合同に参加した12行は、形上「対等」な合併でした。その大半がナンバードな国立銀行の流れをくむ名門行で、地方銀行としても有力な銀行が中心でしたが、各時代の不況を小資本では乗り切れずに、安田の支援を仰いだ銀行だったために、安田善次郎存命からその合同、新生安田銀行の誕生は嘱望されていました。

 この合同において辣腕を振るったのが結城豊太郎です。

 安田はその経営として、番頭をおかず社長たる安田善次郎が積極的に陣頭指揮を行う経営方針であり、三井や住友など江戸時代からの名門商家や三菱とは全くその構造が異なりました*4

 彼自身が立志伝中の人ということもあり、他人に経営を任せられなかったのでしょう。しかし、彼の直系親族にはなかなか後継者が育ちませんでした。また、彼自身学卒者ではなかったために、組織内での学卒者の扱いが他の財閥と比較しても低く、学卒者を子飼いとして社内で育て上げることも不得意でした。このことが当時の安田の欠点と言えました。

 しかし、安田善次郎が刺殺されるという異常事態の中で後継者に窮した安田は、当時日本銀行の大阪支店長であった結城豊太郎を「引き抜き」、安田の事実上の番頭へ据えたのです*5

 結城は属人的な安田を銀行として経営系統を整えるよう尽力しましたが、社内・安田家の反発を生み、1929年に結城は退社、日本興業銀行へ移りました。その後は、日本銀行総裁財務大臣林銑十郎内閣)を歴任した結城でしたが、安田の改革は道半ばで終わりました。しかし、その辣腕による合併は次回にも紹介しますが、多岐におよび、四大財閥のなかでも最大の資本力を持つ銀行、安田銀行の登場に寄与しました。

 

 

 

 

 

 

*1:高田義一郎『兇器乱舞の文化 : 明治・大正・昭和暗殺史』先進社、1932年 兇器乱舞の文化 : 明治・大正・昭和暗殺史 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:松本重太郎 | 近代日本人の肖像

*3:安田銀行六十年誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*4:高橋亀吉『日本財閥の解剖』中央公論社、1930年、p.194

*5:徳久武治『金と悪魔』修文社、1928年