能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

(雑録)「私と台湾の出会い」

 最近エッセイ記事しか書けておらず、申し訳ありません。私と台湾とのなれそめとやらをちょっと……。

 これは台湾研究の泰斗、若林正丈先生の「なれそめ」です。

 

www.nippon.com

 

 

①:進学先は東京へ。

 大学では日本史を学びたいと思っていて、高校ではどの大学を進学するかで悩んでいた。できれば国立大学へ進学したかったし、いずれにせよ実家からの通学は難しかったので、百万遍待兼山とかを割と真剣に考えたが、結局下宿するなら東京へ行きたいなと思った。父親は本気か冗談か、東大か外大を条件として指定したが、そうそううまくは行かなかった。しかしまあ首尾よく東京へは進学できたし、さあ大学で何を学ぼうかということを考え始めた。

 進学先は、学部専門科目を受講できることが二年次以降ということもあり、入学年はぼちぼちと般教を埋めていた。般教の記憶などはほとんどないのだが、その中でたまたま履修した科目に「台湾史」に関連する講義があった。

 思えば「朝鮮史」や「日本近代史」なんかも受講したのだが、記憶に残ったのは「台湾史」だった。学生による授業評価の冊子(学内新聞社が発行していた)には、ジェンダー的にははなはだ不適当ながら「先生がかわいい」と書いてあったことを未だに覚えている。

 

②:「台湾史」との接触

 思い返すと、私の外祖母は1931年に台北で生まれている。私が小さい頃に、台北の思い出を語ってくれたりもした。その縁もあったのか、当時から数えて10年がたった今、台湾台北で学んでいる。祖母は5年前になくなったが、今の私を見て何を思うだろうか。

 今でもそうだが、教授は「台湾史」の講義で、「親日」国イメージのある台湾が、かならずしも「親日」一本で歴史を重ねたわけではないこと、「親日」の背景にある外交的強かさを語っている。かくして、私はそもそも「台湾が、中華人民共和国とは異なる国家」的存在であることを知り、「植民地」として重ねた歴史を知った。

 思い返せば、日本史の教科書では「台湾出兵」とか「下関条約で日本は遼東半島と台湾を獲得した」以外にロクな記述がなかったこの島に、2千数百万の人間が歴史を重ねたことを意識した。

 

f:id:noto92:20191106202652j:image

 

 

③:「台湾史」を専攻の鍵は「くずし字」

 さて、学部1年次に台湾と出会って、そこからすぐ台湾史に没入したわけではなかった。学部前半では、ポストコロニアル理論、あるいはポストコロニアル文学などにハマっていて、サイードとかホミババとかスピヴァクとかを読もうとしていた。いまはほとんど覚えていないが、英語圏ヨーロッパ圏とその植民地、ポスト植民地に興味が向いた。

 高校時代の恩師は、日本近世史を専攻していて、結局私が卒業後に博士号を取得した(いつ仕事してたんだ)。彼の授業ではくずし字の読解などもやっていて、進学後もそうした講義に出ては見たものの、いまいち興味が持てなかった。農村史ってどうもなあと。

 学部3年、ゼミを選ぶ際には、日本史系のゼミ、アジア史系のゼミ、それとも全く関係のないゼミを選ぶかで迷った。結局、当時の私はくずし字を読むのが苦手ではあったし、どうにも日本近世史に興味を持てなかったこともあり、アジアを選んだ。アメリカやヨーロッパはどうも先生とウマが合わなかったのだ。

 かくして、ごく消極的な理由で、台湾を選んだ。先生は穏やかで「可愛い」かったので、のんびりやれるだろうなと思ったのだ。それに、台湾史はアジアを考える、日本を考える上では鍵になるだろうし。それに、植民地の勉強なら資料は日本語だろうし。あの苦手な中国語は適当でもいいよね。

 ごく怠惰な理由が頭によぎりまくり、ゼミ志望届を提出した。

 これがすべて誤りであったことは、私を見ればおおよそ検討がつくだろう。

 そのへんの話はまた稿を改めて述べたい。