能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

(雑録)「学会とコミックマーケット:締切をめぐる仁義なき戦い」

 最近は学会に出たり、日本へ帰ったりと身辺がバタバタしており、研究室の椅子もロクに暖める時間もなかったため(!)、ブログの執筆がかなりお座なりでございます。申し訳ございません。今回もまたエッセイでございます。調べ物をする時間が不足しております。

f:id:noto92:20191105133642j:image

 

①:「締切怖い」

 学会へ出るのは(報告する)のは、初めてではない。英語での発表機会はないが、中国語で報告をした経験もある。しかしそこからまた論文として原稿を起こすのはなかなかの苦痛である。それはともかくとして、今回は「締切」をめぐるお話である。

 学会では当然、報告のためのペーパーを執筆しなければならない。よって「締切」が存在する。締切が好きな人はおそらくこの世にいないだろうが、かといってこの「締切」がないとなかなか人間はパソコンに向かって、図書館で本を探して、資料を探す気概というのが湧いてこない。

 おりしも、先日は年末に開催されるコミックマーケットの「当落」が発表されたが、知人友人のなかにいる諸賢を観察していても、この「当落」発表以前に、明確に原稿を執筆しはじめている人間はごく少数である。

 私の知っているサークル主が、のきなみボンクラであることがその理由の一つかもしれないが、偉大な作家や漫画家も締切への呪詛をその散文や漫画に打ち込んでいることからして、「あらかじめ計画性を持って原稿を書く」ことの困難性というものは、明らかにあるよう思う。いやまあ、偉大な作家や漫画家というのがボンクラな可能性はおおいにあるのだが。

 

「おれは締切日を明日に控えた今夜、一気呵成にこの小説を書こうと思う」芥川龍之介『葱』*1

 

「締切を過ぎて、何度も東京の雑誌社から電報の催促を受けている原稿だったが、今日の午後三時までに近所の郵便局へ持って行けば、間に合うかも知れなかった。
『三時、三時……』
 三時になれば眠れるぞと、子供をあやすように自分に言いきかせて、――しまいには、隣りの部屋の家人が何か御用ですかとはいって来たくらい、大きな声を出して呟いて、書き続けて来たのだった。」織田作之助『郷愁』*2

 

②:何かをなすには、離陸より着陸が難しい

 というわけで、締切がないと、なかなか原稿は書かない。それどころか、アイデアが降りてこない。それどころか不思議なことに、締切が近付けば近付くほどアイデアが出てくる気がする。

 論文というのはアイデアとは関係ないように思えるかもしれないが、その実資料を集めて整理をしていく過程はそうなのだが、そこで明らかになってきた事実にいかなる意味があるのか、いかに意味を見出していくのは意外に「アイデア」の世界に思える。ひよっこが偉そうに、と言われればそれまでなのだが、論文という飛行機を「どのように着陸させるか」は、明らかに離陸するより難しいのである(あらかじめ提出したフライトプランとぜんぜん違うところに着陸しそうになればなおことは重大である)。

 

③:空気を読め!空気を作れ!分科会参加者とコミケの販売部数

 さて、そのようにして論文ができ、学会の場合は発表することになるわけだが、分科会ごとに明らかに人気の差ができるとその多寡に気をもむことになる。学会発表にせよ雑誌投稿にせよ、テメエで発行部数や経費を負担するわけではないから、ん百部刷って3冊ぐらいしか出なくても気にならないし、そもそも定期刊行物に近いのだから読まれなくても出ては行く。それでも、明らかに誰も我が報告、論文を気にしていなければ「気になる」わけである。

 そうした意味で、学会もコミックマーケットも、結局のところ、時代のトレンドや読者を想定してモノを作っていかなければ、ウケることはないのかもしれない。もちろん、自分が好きで、あるいは必要から書くわけだが、そのなかでも読者の存在、読者の背後に控える社会との応答を意識しなければいけないのだろう。あるいは、もう自分がその空気やトレンドを作り上げていくほかあるまい。

 では果たして、この文は時代や社会にとって必要なものだろうか?

 最後の最後に妙なところに着陸してしまった。