(港の歴史)石川県輪島市黒島地区
2017年に輪島市門前町黒島を訪問していたので、その訪問記をまとめます。気がついたら結構港町を巡っていたのでそれもまとめておきたいと思います。黒島は重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、北前船で栄えた近世の記憶を留めた町並みで知られています。2007年の能登半島地震で大きな被害に見舞われましたが、住民を主導の下で保存に取り組み、2009年に前述の保存地区に選定されました。
<要約>
・黒島は總持寺を背景に発展
・近世期は北前船で発達、街並みはその栄華を留める
①:黒島の発達は總持寺から
黒島地区がある門前町は、諸嶽山總持寺の門前にあることに由来します。同寺は曹洞宗の大本山で、現在は横浜市鶴見区に所在しますが、1898年の火事を経て1911年に横浜市へ移転するまでは当地に所在しました。現在は能登祖院などと呼ばれます。さて、黒島地区の発展にはこの總持寺が大きく関わっているとされています。禅林として威容を誇った總持寺が必要とする諸物資の輸送に、この黒島が港として関わったといいます。
②:天領としての黒島
また近世、とくに江戸時代以降、北前船の発達により能登を始めとする日本海側の港湾は隆盛を迎えます。17世紀初頭、黒島は加賀藩前田家の親戚筋に当たる土方氏が領有していましたが、お家騒動により改易、黒島は天領となります。黒島は両隣の村は能登藩領に属したため、離れ小島のような天領であり、18世紀には加賀藩に管理が委託されました。それでも、他の天領となった地域に共通して言えることですが、幕府直轄領としての矜持を持ち、また隣村との諍いなどを要因として、近代まで黒島の人々は黒島としての一体感を持ち続けていたといいます。
③:北前船の栄華
黒島の廻船業は、おおむね近世期に栄えましたが、17世紀後半には約100軒ほどであった家数は明治初期には約500軒まで増加しています。各時期に中心となって栄えた廻船業者は異なり、森岡屋、濱岡屋、中屋、角屋などが挙げられます。現在も残る黒島地区の中心建築となっているのは、角屋の角海家の住宅です。この建築は明治4年の火事の後に復旧されたものだとされますが、できるだけ罹災以前の建築様式を復興したようです。角海家は明治以降、金融業や漁業、不動産業へ移行したようです*1
④:残された栄華の記憶
近代以後、物流の主力は鉄道や汽船海運へと移行し、従前の木造帆船を主体とする小規模港湾や風待港は衰退していきます。また今度も論じたいと思いますが、瀬戸内の島々、港々もこうした栄枯盛衰の歴史がありました。一部の港は、河川改修を伴う大規模な工事によって近代港へと生まれ変わりましたが、消費都市と直結しない小規模な港は衰退していきました。黒島もやはり港としては衰退しましたが、その住民の多くは海員として引き続き海との関係を維持したといいます。
近代は中央である東京、都市である大阪などの5大都市を中心に経済と政治が動き、かつて日本でも有数の大都市であった金沢さえも地方小都市という地位に甘んずることになりました。近世以前に残された各地の小規模な町は、あるものは都市の周縁に飲み込まれ、あるものはそのまま消滅していきました。幸いにここ黒島は、かつて多様な地域が多様な生活を繰り広げた時代の記憶を伝えています。
<参考文献>
石川県「石川の文化財」
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/r1392257_025.pdf
黒島地区まちなみ保存会
http://www.phisnet.ne.jp/kuroshima/
輪島市教育委員会「輪島市黒島地区伝統的建造物群保存地区保存計画」
http://www.phisnet.ne.jp/kuroshima/osirase/hozonkeikaku.pdf
輪島市商工会議所輪島学講習会、川端一人「北前船・角海家について」
http://www.wajimacci.or.jp/pdf/wajimagaku/H26_KITAMAEBUNE.pdf