能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

【訃報】「團結就是力量」、台湾独立運動の父・史明氏死去

 2019年9月20日午後11時9分、台湾独立運動の父とも讃えられる史明氏(本名:施朝暉)が台北医科大学附属病院で亡くなりました。100歳でした*1

 

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史明氏(ウィキメディア・コモンズより)

ファイル:Su Beng.jpg - Wikipedia

 ①:略歴

 史明氏について、知っている・聞いたことがある日本人はあまり多いとは言えないでしょう。ごく簡単に氏の略歴を振り返ってみたいと思います。

 

・1918年:台北市士林生まれ、実家は比較的富裕な家系。建成小学校・台北一中で学ぶ

・1942年:早稲田大学政治経済学部卒業、中国大陸へ渡航、抗日戦争に参加

・1949年:中国共産党の方針に失望、台湾へ帰国

・1950年:蒋介石暗殺を計画

・1953年:日本へ密航

・1955年:池袋で「新珍味中華料理店」を経営

・1962年:日本で『台湾人四百年史』(音羽書店)を出版

・1967年:独立台湾会を結成

・1970年代:台湾島内の独立運動家に接触、運動を指示、支援

・1980年:中文版『台湾人四百年史』を出版(蓬島文化公司出版)

・1981年:渡米、渡欧し講演会を開催(以後アメリカでも台湾独立運動を積極的に展開)

・1993年:台湾へ帰国、特務に逮捕される(1994年保釈)

・1990年代以降:台湾独立運動に従事

 

 ②:日本留学、共産党入党と抗日運動を経験した左派系運動家

 上の略歴から明らかなように、史明氏は日本統治期台湾において資産家階級出身のインテリでした。彼は逃げるようにして日本へ留学、日本ではマルキシズムに触れ、「革命」を志し、抗日戦争へ参加すべく中国に渡ります。

 こうして彼は抗日戦争に参加したわけですが、最終的には台湾へ帰還しています。これは台湾において中国共産党の地下工作を進めるための帰国ではなく、単に中国共産党の方針を理解できない、あるいは失望したためだと言います。特に彼が失望したのは、中国共産党マルキシズム政党ではなく、スターリニズム政党であったということだと言います。そんな彼は1949年に帰台したのち、蒋介石の暗殺をもくろみましたが、収集した火器を発見されたため、日本へ密航します。

 

 ③:池袋で中華料理店を経営しつつ海外から台湾独立運動に参加

 戦後台湾史については、また別項で述べさせていただきたいと思いますが、国民党政府が台湾へ来て以降の政治というのは、蒋介石を中心とする軍事独裁主義的なもので、また「反共大陸」を名目として、共産主義者やそのシンパと目される人、国民党に批判的なひとびと、無関係なひとびとを逮捕し、軍事法廷にかけ、蒋介石が量刑を判断するという恐怖政治が敷かれていました(白色恐怖といいます)。

 このため、「中華民国」というまやかしの体制になんらかの形でも批判や反対を示すものは、台湾では死が待ち受けていたのです。そのため、政治的な自由を求めて海外へ、特に日本やアメリカへ密航・亡命し、外国で台湾独立運動に参与した人物というのは少なくなかったわけです。史明氏もその一人でした。

 彼は池袋で中華料理店「新珍味」を経営、商売は軌道に乗ったようで、ビルを構えるほどになりました。彼はこうして中華料理店の「老闆」(ラオバン)になりながらも、一方では大著『台湾人四百年史』の執筆や独立運動に参与していきます。 

 

④:「台湾人の通史」としての『台湾人四百年史』

 国民党統治下の台湾は、「中華民国」であり、正統中国としての文化を称揚し、教育の中でも「歴史」といえばそれは中国の歴史を指しました。現在では考えられないことですが、当時の台湾では、台湾の歴史を語ることそれ自体が中華民国に対する叛意の表明であり、中華民国政府の弾圧の対象となったのです。そうした時期に、国外でありながらも通史的に台湾の歴史を示した『台湾人四百年史』は記念碑的な意義があったわけです。

 

⑤:台湾独立運動内部での位置(左派的立場)

 日本での台湾独立運動家としては、王育徳氏が著名です。史明氏もまた王育徳の主催する「台湾青年会」(台湾青年独立連盟)に一時参加しますが、運動方針の不一致から脱会しています。1960年代には、こうした台湾独立連盟組織はいくつか存在したのですが、その糾合はなかなか果たせないまま、史明氏は左派としての立場からの独立運動を推進していきます。1970年代にはアメリカでも雑誌を発行、さらには台湾島内での地下工作も開始します。こうした運動に参与する中で、彼は二度台湾に密航しています。

 

⑥:1993年に帰台後も運動に従事

 国民党統治期の台湾では、海外で台湾独立運動に参加・関係した人間はブラックリストに掲載されることになりました。1987年、台湾では戒厳令が解除され、徐々に民主化へむけた動きが胎動していきます。そうしたなかで、「最後のブラックリスト掲載者」ともいわれた史明氏は1993年に帰台、逮捕されます。すでに独裁統治体制が終りを迎えていた台湾では、あまり大事にはなりませんでした。その後も氏は、台湾独立運動を積極的に展開していったのです。80歳、90歳を過ぎても、彼は戦い続けました。2012年の総統選挙では、蔡英文候補を積極的に支援しました。2016年には顧問として選挙運動に関わりました。ひまわり学生運動でも学生が占拠する立法院へ駆けつけ、学生たちを激励しています。氏は最後まで常に行動者として、運動家として先頭に立ち続けてきました。

 氏の生活はごく質素で、かつて稼いだ資産はすべて運動に投じ、身辺において大切にしてきたのは店の常連であったという武者小路実篤の「團結就是力量」という書だけであったといいます。彼は人に自分を「歐吉桑」(歐里桑、おじさん)と呼ぶように言っていたそうです。蔡英文総統も「歐吉桑」と呼んで弔慰を示しています*2。この歐吉桑はつねに行動をすることで他者、特に若者に道を示し続けました。

 その姿は、現在の台湾ではやや特殊な立ち位置(反共産党、反統一の社会民族主義独立運動家)にもかかわらず、広く尊敬を集めてきました。彼はその生涯の中で、悲願とした台湾の独立はなしえませんでした。しかしながら、長らく戒厳下にあり、台湾を語ることさえ許されなかった台湾社会に、外からとはいえつねに台湾を語り、行動することを訴え続けました。残された課題は、これからの世代が向き合い、答えを出していくことになるのでしょう。

 

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コンクリートブロック並みの分厚さ

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武者小路実篤の書




 

 

<参考文献>

・『台湾人四百年史』鴻儒堂出版社、2005年

・『史明回憶錄』前衛出版社、2016年