能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

(近代建築探訪)神戸市「海外移住と文化の交流センター」(旧国立移民収容所)

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海外移住と文化の交流センター

「一九三〇年三月八日。神戸港は雨である。細々と烟る春雨である。…三ノ宮駅から山ノ手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみ…この道が丘に突き当って行き詰ったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている。…是が「国立海外移民収容所」である」(石川達三(1935)『蒼氓』改造社

 

<要約>

・「国立移民収容所」1928年竣工、設計:置塩章(代表作、茨城県旧庁舎・国立生糸検査所)

・ブラジル移民を収容し、防疫や教育を行う施設

・ブラジル移民の歴史(M41から1993年まで、のべ40万人が移民)

 

 

①:始まりはハワイへー近代日本の歴史はハワイの歴史ー

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当時としては多額の予算を投じて建設された

 日本はかつて積極的に海外移民を推奨していた時期がありました。その移住先は、満洲であり、朝鮮であり、南米でした。今でも南米にはたくさんの日系人が暮らし、その地域に根を下ろしています。神戸はかつてそうしたブラジル移民を送り出す拠点であり、この「海外移民と文化の交流センター」はその時代を象徴する遺構です。
 日本の移民の歴史ははやくも明治元年から始まり、153名がハワイへと向かいました。その後、日本とハワイとの関係は深まり、労働移民条約などが締結され明治27年までには約3万人がハワイへ渡航しました*1

②:北米・ハワイでの排日運動を経てブラジルへ

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建物内の天井は低い。移民船を模して作られているという



 その後、明治期にはハワイを中心とする移民が多かったのですが、ハワイがアメリカに併合後は契約移民禁止が適応されたことで、東南アジアやメキシコへの移民が一時増加しました。その後、ハワイへは自由渡航の形で移民が継続しましたが、排日感情が高まったことで移民の制限が行われました。こうした冬の時代に、移民の中心となったのは南米で、明治41年に初めてブラジル移民が日本を出発し(家の有名な笠戸丸で)、以後も南米への移民が主力となっていきます。1929年時点でアメリカに14万人、ハワイに13万人、ブラジルに10万人の邦人が在住しており、この年約63万人の邦人がいるなかで、約15%がブラジルに居住していました。

 

③:国家事業としての移民ークリーム色の洋館が留める移民の記憶ー

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クリーム色の壁、緑色の廊下。病院を思わせる



 ブラジルへの移民は移民事業会社や組合を通じて推進されましたが、その送り出し地となったのが神戸です。神戸には昭和以前に「移民宿」と呼ばれる下宿、旅館が有りこれらの宿で移民に向けた準備を行うことになっていましたが、さらなる移民の拡大に向けて国立の施設を建設することになりました。それがこの「国立移民収容所」です。この建物は置塩章が設計、1928年に竣工、1930年に増築が行われました。鉄筋コンクリート5階建て、高台に位置するこの建物はよく目立ったことでしょう。ここではふつう10日間滞在し、疾病の予防措置、その他地政に関する学習などを受けました。昭和4年度には3,328家族15,520人を受け入れ、送り出しています*2
 1932年、国立移民収容所は神戸移住教養所に改称されます。寝台は828床ありました。

 

④:移民者は全国まんべんなく

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1920年代らしくアールデコの雰囲気がある



 移民者は多くが家族でしたが、単身での移民も一応可能でした。1935年の資料に掲載されている出身地別で見ると、広島県が最も多く、ついで福島、岡山、山口、宮城、静岡など全国に分散しています。ほとんどが農業従事者で、ついで大工が多かったようですが、それについで「無職」が数を連ねます*3
 1936年の資料によれば、日本とブラジルを結ぶ航路は大阪商船の南米航路及び南アフリカ航路の南米延長線があったようで(1929年資料では日本郵船も有り)、おおむね44日から57日かかると記されています。こうした移住に際しては、さまざまな煩雑な諸手続きがあったようですが、前述した移民会社や移住組合がその手続を代行、手伝っていたようです。

 

⑤:渡航補助も支給された国家的移民事業

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後方部が増築された部分



 移住に際しては、自費で行うことも出来ましたが、政府で渡航費等の補助も受けられることになっており*4、そうした意味では手厚い「支援」があったことがわかります。しかしながら、サンパウロ総領事が、ブラジルへは「怠け者」を送らないように、また植民地意識で高圧的な姿勢を取らないように指摘をしていることから、日本内地でのこうした移民に対する意識や視線が読み取れるように思います*5

 

⑥:苦難の歴史と戦中、戦後ー「勝ち組、負け組」

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浴室も有り、地下にはボイラーもあるという



 彼らの多くはブラジルのコーヒー園で労働者として働き、独立を目指しました。その後の歴史について私はここで深く論じませんが、よく知られる話として、1945年の敗戦を巡って「戦勝派」「敗戦派」(勝ち組、負け組)に分裂し、テロ事件さえ起こしたという話もあります*6。通信が発達していない当時において、ブラジルと日本との距離はかくも遠かったのです。戦後、移民事業はまた再開され(1952年、神戸移住斡旋所として業務再開)、1940年代の戦時一時中断された教養所の利用も再開され、1964年には神戸移住センターに再度解消されましたが、1971年5月最後の移民船「ぶらじる丸」が出向し、その歴史に幕を下ろします。その後は看護学校として利用された後、阪神大震災での被災を免れましたが、震災後に保存をめぐる議論が巻き起こります。

⑦:震災から保存へ

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関東大震災後の逼迫した時期、ゆとりのない中でこれだけの建築。移民の重要性が見て取れるだろうか



 2007年、神戸市が主導し、国と県の協力のもとで保存再整備が決定され、2009年に完成を迎えました。現在は館内でその移民の歴史を伝えています。
 第1回芥川賞を受賞した石川達三『蒼氓』はこの国立移民収容所、そしてブラジル移民を題材としているそうです。未読ですが、あらすじを読む限りではかなり興味深い内容です。暇があれば一読致します。

 

地点

〒650-0003 兵庫県神戸市中央区山本通3丁目19−8

 

参考文献(文中で挙げたもの以外)

 

日伯協会編(1930)『ブラジル事情と渡航法』同所 ブラジル事情と渡航法 - 国立国会図書館デジタルコレクション

ブラジル移民の100年(国立国会図書館コラム「国立神戸移民収容所(神戸移住センター)」 | ブラジル移民の100年

海外移住と文化の交流センター「建物の歴史」海外移住と文化の交流センター 建物の歴史

ニッケイ新聞「移住坂 神戸と海外移住」移住坂 神戸と海外移住(4)=国立移民収容所の業務開始で=移民宿の経営深刻に – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB

一般財団法人日伯協会「移住ミュージアムのご紹介」

移住ミュージアムのご紹介(神戸・観光名所)|一般財団法人日伯協会 - 日本とブラジルの架け橋 since 1926

*1:拓務省拓務局(1931)『移植民及海外拓殖事業』同所、p.1 移植民及海外拓殖事業 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:神戸市港湾部編(1930)『神戸港大観』(昭和5年)同所、pp.18-19 神戸港大観. 昭和5年 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*3:兵庫県立第一神戸商業学校産業調査部(1935)『貿易及び海外事情』第1輯、同所、pp.229-232 貿易及び海外事情. 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*4:第4章 国の保護奨励策の下での移民(1) | ブラジル移民の100年

*5:文部省実業学務局編(1929)『移植民教育』実業補習教育研究会、pp.198-208 移植民教育 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*6:第6章 日系社会の分裂対立(1) | ブラジル移民の100年