能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

(台湾歴史)「美麗島事件40周年」

 1979年12月10日、台湾南部の高雄で、民主化を求める運動者によるデモと警官隊が衝突、多数の逮捕者が出る事件、「美麗島事件」が発生しました*1。今日はそれから40年。今日は簡単にこの事件を振り返ってみたいと思います。

 

 ①:背景(戦後国民党の権威主義統治体制)

 カイロ会談の中で、台湾の中華民国への帰属が決まり、日本の降伏後、中華民国は台湾の接収を開始、その過程で非常に多くの混乱が生じました。その中で、警察と市民のいざこざから大規模な抗議運動へ発達した二二八事件、そしてその二二八事件の収集にあたった市民が逮捕、虐殺されるという事件(白色テロ)へ発展していき、台湾は日本の植民地支配から、新たな権威主義支配へと移行していきます。1949年には、中華民国が台湾へと「移転」、蒋介石の指導下で台湾は「反共」の基地として再編され、社会主義的思想は言うに及ばず、民主・自由主義的思想は弾圧を受け、また台湾独立主義的思想も弾圧を受けました。このような時代が、権威主義統治体制です。

 1970年代、中華民国は国際社会で徐々にその地位を喪失していきました。国連脱退(1971)、日本との外交関係断絶(1972)、アメリカとの外交関係断絶(1978)と、中華民国は確実にその支配の正当性を失い、「反共主義」をスローガンに市民の民主・自由を制限する体制には徐々に疑義が寄せられ、それまでの国民党一党独裁政権への挑戦が生じました。これを党外運動と呼びます。

 この時期は同時に、蒋介石から蒋経国への権力移行が本格的に進んだ時期でもありましたが、1960年代までに進んだ台湾の「本土」意識、あるいは台湾の「住民自決」への意識が、1970年代の内外の政治的状況の中で、具体的に展開されていくことになり、それはまた一方で、国民党・中華民国との具体的な衝突を生じることになります。そのひとつであり、端緒となったのが美麗島事件です。

 

②:党外運動の中心地、「美麗島」雑誌

 1978年の補欠選挙では、こうした反国民党的な、党外と呼ばれる運動家が立候補し、戒厳令の解除や国会の全面改選を訴えはじめます(しかし、アメリカとの断交により選挙は中止)。この時代の党外運動は、雑誌を凝集点・媒介、組織化され、選挙運動を通じてその理念を拡大していくというものでしたが、その中心の一つであったのが雑誌『美麗島』です。

 『美麗島』は、当時桃園県県長で党外運動家の許信良を社長に据え、後の民進党幹部になる呂秀蓮や施明徳、陳菊などが参加します。彼らは各所に事務所を設置し、草の根の運動を広げていきます。

 

③:民主化へ向かうマイルストーン美麗島事件

 そんなさなかに発生したのが、美麗島事件です。1月に運動家が逮捕されたことに対する抗議デモがそのはじまりとなり、12月10日の「世界人権デー」を記念する全島的なデモ行進が開催されることになりました。高雄では、当局の許可も得ない中でデモ行進を行い、警察・憲兵と衝突、当局はこうした「美麗島」集団に対する批判を行い、13日から全島的な「党外」活動家の逮捕が始まりました。このときに逮捕されたのは、当時の主要な活動家で、ほとんどすべてが反乱罪を名目に逮捕、有罪になった意味では*2民主化へ向けた党外運動は大きな打撃を受けることになりました。

 その中では、逮捕された省議員の家族がなにものかに殺害されるなど、政治・警察レベルでのなんらかの策動があったのではないかという事件が多発し、政治・警察への不信が高まることになります(この流れどこかで見たような)。

 「美麗島事件」で、たしかに多くの運動家が逮捕されましたが、1980年に開催された補欠選挙や1981年の地方選挙、1983年の補欠選挙では、こうした党外勢力が躍進、1986年には「民主進歩党」の成立を見るに至ります。美麗島事件の弁護の中で、のちに総統になる陳水扁が登場するなど、政治運動の転換と党外運動の加速を促したという意味で、この事件は大きな意味を持つことになったのです。

 

*参考文献

・若林正丈『台湾の政治』東京大学出版会、2008年

・李筱峰・薛化元『典蔵台湾史7:戦後台湾史』玉山社、2019年

・周婉窈『台湾歴史図説』三版、聯經、2016年