能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

(書誌紹介)「小野田滋「阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋」阪急三宮の設計士、阿部美樹志」

 

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阿部美樹志の設計した阪急三宮駅(模型)

 そのうちに書くのですが、友人と神戸で「運転会」を開催しました。運転会とは、模型を持ち寄って走らせる、ということですが、我々の運転会はレンタルレイアウトへ行くのではなく、ふつうの会議室などを借りて持参したレールを広げる方式です。そのほうが大勢で、しかも気兼ねなくできるのですが、最近では目先を変えて、その土地にちなんだ何かを作成することが増えました。今回は、開催地の神戸にちなんだ情景を作成、そのコアは写真にあるような「阪急三宮駅」でした。

  ご存じの方がほとんどだと思いますが、1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震、いわゆる阪神淡路大震災によって、この1936年に竣工、戦火もくぐり抜けたこの駅舎は全壊、撤去されました。

 この駅ビルには、主に映画館が設置され、「阪急会館」と呼ばれ、単なる駅、あるいは商業ビルだけでなく、文化の発信地として市民があつまる場所だったのです。

 この建物を再現するにあたって、私は設計図を作成することになったのですが、振り返ってみると、80年も前にかようにモダンな建物を設計士たのは誰だったのか。気になります。

 この駅舎を設計したのら、実は日本の鉄道史に大きな足跡を残した、阿部 美樹志(1883年~1965年)です。彼は大学、そしてアメリカでコンクリートを専門に学び、鉄道院に入り日本最初の鉄筋コンクリート高架鉄道を設計することになる、日本の鉄筋コンクリート工学の開祖とも称される人物です*1

 また彼は、小林一三の愛顧を受け、阪急・東宝の建物をつくり続けました。戦後は小林一三の後を受け復興院総裁を務めました。

  彼の初期の業績に、東京ー万世橋間の高架鉄道設計があります。これにより日本初の鉄筋コンクリート高架橋を建設、その後も大阪市内の環状高架線も含めた国鉄高架線の設計、東京横浜電鉄横浜市内の高架線設計などど、私鉄線の高架線建設にも活躍しました。

 鉄道院を辞職後、阿部事務所を開設。梅田阪急ビルのほか、十三~梅田間、王子公園~三宮間の鉄道高架橋など、神戸阪急ビル(1936年)、阪急西宮スタジアム(1937年)、東宝劇場、神戸阪急ビルなどを設計しました。

 

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この高架線の設計も阿部美樹志(越後屋撮影)

 

 この鉄道院での主要な仕事である、コンクリートを用いた高架橋の設計に関して紹介したのが、小野田滋「阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋」です。この高架はこの人の設計だったのか!と驚くことも多いです。

 いまややや忘れがちなコンクリート博士の事績ですが、是非ここで振り返ってみて下さい。

 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1990/21/0/21_0_113/_pdf/-char/ja