能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

(台湾ニュース)「李登輝元総統約1年ぶりに公の場へ。蔡英文総統支持を表明」

<要約>

 李登輝元総統が昨年11月以来、約1年ぶりに公の場へ登場、蔡英文総統への支持を公式に表明しました。

 

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李登輝元総統(ウィキメディア・コモンズより)

 ①:李登輝とは

 いわゆる独裁者、「小ストロングマン」であった蒋経国総統(Jiang jingguo)は、1987年に戒厳令を解除した後、1988年に後継者を指名することなく死去しました。1980年代という大きな政治変動の中で、この指導者の死は台湾の政治的変動に大きな影響を及ぼしましたが、その変動の中で頭角を現したのは副総統であった李登輝です。

 李登輝は1988年、総統職を引き継ぎ、戦後(というより台湾の歴史上)はじめて、台湾出身の総統となりました。彼の細かな経歴は省きますが、京都大学アメリコーネル大学への留学、博士号を取得した技術系のエリートです。彼は総統就任後様々な「困難」と立ち向かう必要がありました。「中華民国」という中国サイズの統治機構を、台湾という小さな島国に当てはめる「法統」と呼ばれるシステムは、戦後不合理な形で継続していましたが、この法統の解体、台湾サイズの統治機構を構築することが彼の最終的な到達目標でした。そのためには、「党国体制」と呼ばれる党と国が一体化した体制の中で、国民党の掌握、さらに国軍の掌握が必要でした。

 

②:台湾初の民選総統

 彼は微妙な舵取りを強いられながら、1988年に国民党代理主席に就任、同年に党大会で主席に就任、1989年には参謀総長の郝柏村を退任させ国防部長、さらに行政院長に任命、憲法修正や総統直接選挙に向けた調整を重ね、1991年にいわゆる非常時体制を終結台湾省直轄市首長の直接選挙を実現、1993年には党大会で党主席に再選、1996年に直接選挙の実施を実現、台湾で初めて民主的な選挙で選ばれた総統となります。

 その後も任期中に「台湾省」の凍結や中央政府制度の改革、憲政改革などをすすめ、台湾と中国、という「二国論」に基づく憲法の修正を試みましたが、それには失敗、中米の反発を招く中で「特殊国と国との関係」という後退した表現で台湾と中国の現状を表現するにとどまり、憲法修正にも失敗しました。

 2000年の選挙には出馬せず、国民党は連戦と宋楚瑜という二大実力者が衝突、後者が離党、国民党は事実上「分裂」、これは野党民進党陳水扁の勝利を生み、李登輝は国民党敗北、分割の当事者として批判に晒され、党主席を辞任、さらに離党し、その後はいわゆる「台湾独立運動」のなかで活動していくことになります。

 その姿勢は、いわゆる「中華民国」体制を台湾サイズの政治体制へと移管させ、総統選挙の実施、憲法の修正による「台湾省」の消滅など、現在の台湾にいたる政治制度を確立した点で評価される一方、中華民国を事実上消滅させたという評価や、「台湾独立派」、小林よしのりの『台湾論』への登場や発言から「媚日派」という意見も見られます。

 

 以上、若林正丈『台湾の政治』東京大学出版会、2008等を参考

 

③:昨年11月転倒入退院後はじめて公の場へ

 そんな李登輝元総統ですが、昨年11月に転倒、入退院後以来約1年にわたって公の場へ姿を見せず、健康状態が気遣われていました。10月19日、「李登輝基金会」のパーティーに1年ぶりに登場、蔡英文総統への支持を公式に表明するとともに、約2千字に渡るメッセージを発表しました*1

 96歳となる氏は、このメッセージは娘の代読による発表にとどめましたが、メッセージでは近年の世界情勢、中国情勢に触れながら、ポピュリスト政治家の登場への懸念、中国による一帯一路政策への批判、台湾が現在民主政治の危機に直面していること、民主的な台湾は我々の誇りであり、台湾の「正常化」へ向けて蔡英文総統への支持を訴えました。

 李登輝基金会によると、氏の現在の健康状態は良好で、写真を見る限りでは血色もよく、健在ぶりをアピールしていました。

 また近日のブログでまとめる予定ですが、選挙戦は残り約3ヶ月、目下のところ世論調査では蔡英文総統がリードしている状況です。