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能登屋備忘録

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

「成人の日」から

日常

1月の第2月曜日は成人の日で、2017年は今日が成人の日だそうです。私は成人してもう何年も経ちましたし、格別の感情もありませんが、ニュースを見れば成人の日のことをやっておりますので、少しこれについて書いておきたいと思います(以下長文)。

 

 「成人の日」というのが出来たのは1948年のことだそうです。いわゆる「成人式」が市町村ではじまったのはそれより少し前の1946年、蕨町(埼玉県蕨市)で行われた「青年祭」からだそうです*1。 そう考えればたかだか70年弱(といってもこれももう長いですが)ほどの歴史しか無い、「祭」としては新参な方に思えます。とはいえ、「成人」を祝うというのは世界中あらゆる地域で見られる「通過儀礼」の一種ですから、成人式もこうした通過儀礼の現代的姿のひとつと見なさねばならないでしょう。

 さて、「成人式」といえば珍奇な装いをした若者が酒をかっくらって暴れまわるというような印象もありますが、これは研究によれば1990年代末に目立つようになったものだそう*2。成人式が「荒れる」要因は様々考えられるようですが、根本的には「子供が少なくなった」ことにまず要因があり、つぎに先にあげた研究でも指摘されていますが、成人の「公共圏」「親密圏」の変容がある。ようは、自分や仲間(親密圏)を規定、ないし抑圧する他者の存在(公共圏)が希薄化しているというのです。

 かつての近代社会においては、国家という非常に大きな枠組みのしたに、意見を共有し議論する場として他者と出会う「公共圏」が存在し、更にその下に、仲間や家族といった親密なるものとの「親密圏」が存在しました。しかしながら、近代の歴史において、「公共圏」がしばしば個人の抑圧や各種の動員に利用されてきました。悪名高い「隣組」や「婦人会」などといった組織は、国家と個人の媒介として存在した公共圏であり、若者はこの公共圏に参与する(させられる)なかで、公共圏・国家に生きる自己の場所を見出したというべきでしょう。

 先述の文献において、筆者は1970年代以降「個」の重視が進められ、「個」を抑圧する公共圏は親密圏からの退去を余儀なくされたといいます。公共圏は「個」を抑圧するとともに、コントロールする場でもあったのですが、この退出によって徐々に「個」は行き場を失っていく。

 「荒れる」成人式の批判において、成人式の「七五三化現象」(きれいなおめかしをしているけれど、中身は全くの子供)であるといわれることがあり、成人の「幼稚」化が槍玉に挙げられることも多い。そして更に、そこから転じて彼らを教育する学校(戦後教育)への批判がなされることも多い。とはいえ、「荒れる」成人式において発露しているのは、彼らの幼さではなく、彼らを社会がどのようにコントロールしているのかということであるように思うのです。

 元服やらなんやらといった時代には、ムラや場のルールを明確にし、その遵守を個人に迫った。それに対する応酬として、ムラで生きる権利を、あるいは「家庭」が与えられました。大人になるという意味が社会において非常に重大であり、またオオヤケに対する観念が今とは随分懸隔があったと考えられます。

 現代において、「成人」というのはほとんど「通過」儀礼に過ぎず、その意義は明確ではない。そのために、成人式は大人になるための儀式ではなく、同窓会の0次会となっているように思います。そもそも、人がいつ「社会」に出るのか?「公共圏」が希薄になった今ではその内容すら明確ではないでしょう。

 私は「公共圏」を復活させよと主張するわけではありませんし、「公共圏」の消失にも意義があったと思っています(にもかかわらず中途半端に汚く残っているソレが生き辛さの要因でもあると思っている)。ただ、寄る辺もなく漂う「個」を、「今時の若者は」という軽率な一言で片付ける社会を許すことはないでしょう。「公共圏」が消失した今、頼るべき大人の姿、社会の有り様も明確ではない。ルール不在の時代なのです。

 新しく作られるべきは新たなルールか?それとも、「個」と「社会」を介在する新しい枠組みなのか。それが今問われるのではないかと思います。

 

 新成人の皆さん、おめでとうございます。