能登屋備忘録

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

さんぱつ

雑文です(だである調)

 

 

昔からどうも散髪が苦手で、いざ行こうとすると憂鬱な気持ちになるので行くぞ行くぞと気合を入れてから散髪屋に一報を入れる。これでももう逃げ場はなくなり、鏡の前に据えられた椅子に座る。

なぜ散髪が苦手な理由ははっきりしていて、なにもすることがなく椅子に座っていることが嫌というだけ。どうも長い時間同じ姿勢で座っていることが苦手で、これは多動傾向の表れと見ることもできてやや書くのも憂鬱になる。この状況は、本さえ読めればそう退屈な時間ではないのだが(新幹線や飛行機は割に平気であるし)、散髪屋ではこうはいかない。

なぜか? 私がこれまで行った散髪屋ではかならず眼鏡を取るように言われる。これは長所と短所があって、短所はさきほどの「本を読む」ことが妨げられるということだ。眼鏡なしには手元の文庫さえロクに読めない。一方で長所は、鏡と向かい合ったがために己のこのお粗末なお顔とにらめっこというのがボヤけるということである。散髪な苦手な理由がもうひとつここにあって、自分の顔に向き合うという大変な苦行があるからである。ただこれは、眼鏡を取るということで幾分軽減される(自意識過剰にも程があるだろうが)。

できることならこの不細工な顔を見ることなく、眼鏡をして本でも読めることができれば散髪は苦にならないのだがそうはならない。あとに残された道は、散髪の時間を出来るだけ手早くするということであるが、田舎ではなかなかそうもいかない。一時間ほど丁寧に刈ってくれる理髪師に敬意を表さねばならない。

私が普段行く理髪店の店主はあまり口うるさい方ではなく、適当に時論公論を耕しておけばよいのだが、人によってはこれも苦痛だろう(そういえば店主が最近私がいつまで「学生」なのかを疑問に思い始めた。潮時なのかもしれない)。そう考えればなかなかに「髪結いの亭主」というのは難儀だろうし、出来るだけ穏当な客で居たいと思う。

とはいえ、散髪が終わって軽い頭を振りつつ、髭が丁寧に剃られツルツルした顎を撫でるのは快感でもある。この快感を味わうには、やはりある程度髪の重さを感じられるまで放置しておく他無い。となれば、やはり散髪からは足が遠のく。さようなら散髪。また頭が重くなる日まで。問題は、この頭がいつまで「重く」なってくれるのかという話で(知らない間に頭が「軽く」なっている)、いつの間にか散髪も贅沢な話になってしまうのかもしれない。