能登屋備忘録:台湾生活日記

能登屋の日常を淡々と描く作品です。

さいきょう土産(みやげばなし~その1)

さて、いよいよ「おみやげ」というテーマでいろいろとものを書いていこうということになりますが、いかんせん長くなります。そこで、一日一日ほそ切れにやっていって、ご拝読いただいている皆様には一日一日見ていただこうと、こういうことになります。

 

 

今回なぜ「おみやげ」について書くことになったのかというと、動機は主に2つ。まず、私自身の経験として、「石川県でおみやげを買うことに困った。それについて、id:aqua_161と少し喋ったこと」。つぎに、私の後輩である熊さんことid:kuma_rapidexpが以下の様な記事を書いていたから。この個人的な「おみやげ」に関する接触経験から、この記事はスタートします。

 

kuma-rapidexp.hatenablog.com

 この記事の中で氏は以下の様な議論を打ち立てます。

職場に持ち帰る土産物は「(ある場所に行ったという)適切なメッセージを適切な場面で適切に伝えられる」ものを買って帰るというミッションを果たしてくれるものでなければならない。どんなお土産を買って持ち帰り、どういったタイミングでどういうお土産をどういう風に渡すかというところまで考慮してKIOSKで悩まなければならないのである。

贈り贈られ - ある日森の中

 

おみやげを贈る、受け取るという相互行為をコミュニケーションの一形態と捉える氏は、「おみやげ」を「「コミュニケーション」の渕」と表現しています。「おみやげ」の中に折り重ねられた重層的なコミュニケーションは、それ自体が送り手の代弁者として、受け手に対して様々なアピールをしているのです。

また、奇人笹松しいたけ氏id:sasamatsu*1も、上述のブログを受けて、次のような論考を示しました。

 

sasamatsu.hatenablog.com

そこでは、氏独自の伊勢名物「赤福」論を以下のように提示しています。

他人に向けて赤福を買って帰ることは少ない。家族には買って帰るが。これは何故か。赤福が個包装になっていないどころか隣とくっついてることに原因がある。赤福には木の"へら"が1つしか付属していない。別にスプーンを用意せずに複数人で食べるとうっかり唾液を交換することとなる。よほど心の距離が近くないと赤福は他人と食えないのである。

あかふく - スク水の淵から(sasamatsuのブログ)

 

先ほどの、熊さんの議論を受けてこれを考えてみれば、「赤福」は会社や学校といった他者との場においては、コミュニケーションとして通用することが難しいものということになるでしょう*2。現に、おかげ横丁にある赤福本店では、小皿に盛られた「赤福」が供されており、あの折は魔神にでも強制されない限り一人で食べるものでもなく、おそらくは近しい人とその場でわけあって食べることを想定しているのでしょう。

 こう考えれば、「おみやげ」のコミュニケーション性は非常に複雑かつ豊かなものになりそうです。では、こうした「おみやげ」を、我々は一体どのように選びとっているのでしょうか。本稿では、アンケートを通じて寄せられた47都道府県の「おみやげ」を通じて、相互行為としての「おみやげ」、観光における「おみやげ」を考えていきたいと思います。無論、本稿は論文ではないので、サンプル数の少なさや主観的判断に強く依存したものとなりますが、できるだけ幅広く、各県の「おみやげ」と観光、コミュニケーションについて考えていきたいと思います。

 

*1:本記事以外は記事によって非常に過激な表現が見受けられます

*2:もちろん、場によっては小皿と爪楊枝で乗り切ることもあるでしょうが